ETHチューリッヒのチームは、人の髪の直径のわずか一割という極小ガラス球を三つ縦に積み重ね、レーザー光だけで真空中に浮遊させることに成功した。光学トラップと呼ばれる技術で偏光レーザーを一点に集光し、その電場勾配にナノ球クラスターを捕捉している。結果としてクラスターは毎秒百 万回という超高速で首を振るものの、その角度はわずか数千分の一度しかなく、見た目には“空中で凍りついた”かのように見える。このかすかな揺らぎのうち九二%が量子固有のゼロ点振動で、熱や空気分子がもたらす古典的ノイズは八%にまで抑え込まれた。驚くべきは、この高い量子純度を得るのに極低温装置を一切使っていない点で、実験は終始室温で行われた。Nature Physicsに掲載された今回の成果は、冷却という高い壁を取り払うことで、量子センサーを量産可能な技術へ一気に引き寄せる転換点となった。
ニュース詳細
室温・無冷却で量子純度92%を達成
ゼロ点振動をとらえる実験といえば、これまでは絶対零度に迫る―273℃付近まで試料を冷やし、熱による雑音そのものを凍結させるのが常識だった。今回のグループは発想を逆転させ、レーザーがつくる電場にナノ球のクラスターをぴたりと同期させることで、温度には手を付けずに外乱を封じ込めた。重力によるわずかな揺れや空気分子の衝突を真空中でほぼ遮断し、残った微小な動きだけを高精度干渉計で読み取って、量子由来のトルク成分を抽出したのである。数千万円規模の希釈冷凍機を使わずに、これほど高い量子純度を実現した例は前例がなく、測定技術のハードルを一段低く押し下げた成果と言える。
ナノ球クラスターの光学レヴィテーション
装置の核となるのが「光学ツイーザー」と呼ばれる仕組みである。研究者は真空チャンバーの内部に強く偏光したレーザー光をレンズで一点に絞り、その焦点に生じる電場の勾配を利用してガラス製ナノ球を引き込む。電場に捕捉された粒子は、自身の誘起双極子が電場の向きとそろうように自発的に姿勢を整え、まるで見えない糸でつり上げられたかのように空中に静止する。今回は粒子を三つ縦に積み重ね、細い塔のようなクラスターを形成させた。こうして慣性モーメントを意図的に大きくすると、ごく弱いトルクでも首振り運動が生じやすくなり、測定感度が向上する。実際に観測された角度変化は千分の数度という極小値にすぎないが、研究チームは帯域幅の広いフォトダイオードでレーザー散乱光を捉え、ナノ秒単位の時間分解能でその揺らぎを追跡した。
想定される応用:量子重力実験から医療診断まで
量子純度が際立って高いメカニカルオシレーターは、いわば“揺れのレンズ”を極限まで磨き上げた装置であり、これを用いれば重力と量子力学がどこで折り合うのかを探る干渉実験が現実味を帯びる。また、暗黒物質がわずかに exert する未知の力を検出するセンサーとしても期待される。共振振幅がほんの少しずれるだけで外部から受けた微細な衝撃を読み取れるため、数個のガス分子がクラスターに当たる程度の力でも計測できるポテンシャルを持つ。この感度を活かせば、GPS 信号が遮断される地下や深海での慣性航法装置、さらには神経活動が生む弱い生体磁場を画像化する医療デバイスといった応用の扉が開かれる可能性が高い。
専門家解説
ポイント整理
今回の成果をまとめると、第一に装置が室温で動作する点が大きい。極低温を保つ冷凍機を用意する必要がないため、コストと消費電力が抑えられ、デスクトップサイズへの小型化や複数台を並べる大量展開が現実味を帯びてくる。第二に測定した揺らぎのうち九二%が量子起源であるという高い量子純度を達成したことで、熱雑音など古典的な揺れをほぼ排除した状態でものの極微小なゼロ点振動を直接読み取れるようになった。最後に数億個の原子から成るナノ球クラスターを量子レジームで自在に扱えたこと自体が画期的で、これまで単一原子系で行われていた量子制御の概念を、より大きな多原子系や将来の量子デバイスへと橋渡しする決定的なステップになる。
さらに解説
今回用いたナノ球クラスターの直径はおよそ数百ナノメートル、内部に含まれる原子は数億個に達する。これは単一原子を相手にする量子光学とも、連続体の機械共振器とも異なる“中間サイズ”であり、その領域を室温のまま量子制御できた点が最大の収穫だ。理論的には、外部から磁場や電場を重ね掛けしてナノ球内部にスピンと機械運動を結び付けることで、量子情報の書き込み・読み出しも実現できると見込まれる。さらに感度が10⁻²¹ニュートンという超微小力の検出範囲に入る可能性があり、ダークフォトンのような未知の粒子やミリメートル以下で働く謎の短距離力を探る実験プラットフォームとしても期待が高まる。
キーワード解説
- 量子純粋状態:熱ゆらぎや機械振動といった古典的ノイズをほぼ駆逐し、系全体を一つの波動関数で記述できる理想的な状態である。残る運動はゼロ点振動だけとなり、観測されるすべての揺らぎが量子起源へと収束する。
- ゼロ点振動:温度を絶対零度まで下げても完全には止まらない、量子力学が要請する最小限の揺らぎである。振幅は極めて小さいが、質量やばね定数が大きい系ほど検出が困難になるため、高感度干渉計や光学読み出しが必須となる。
- 光学ツイーザー:集光したレーザーの勾配力で微粒子を三次元的に捕捉し、空中や液中に浮かせて操作する技術である。真空下で用いると、粒子は光電場のポテンシャル谷に閉じ込められ、外乱を受けにくい超低摩擦環境が得られる。
- イジングモデル:スピンの上下を±1の二値変数で表し、その相互作用エネルギーを最小化することで物性や最適化問題を解析する理論模型である。本研究の直接題材ではないが、量子センサーの感度評価や雑音解析に応用されることが多い。
- 量子センサー:コヒーレンスやエンタングルメントといった量子性を利用し、力・加速度・磁場などを従来より桁違いに高い分解能で測定するデバイスである。ゼロ点振動を基準信号として利用することで、10⁻²¹ニュートン級の微小力検出が理論上可能になる。
- 量子重力:一般相対論と量子力学を統合し、重力場の量子化を目指す未完成の枠組みである。室温で高純度を維持できるメカニカルオシレーターは、微小質量の重力ポテンシャルを量子干渉で読み解く実験系として有力な候補となる。
まとめ
巨大で高価な希釈冷凍機を使わずとも量子純粋状態を作れると示した今回の成果は、量子センサー開発の参入障壁を一気に下げたと言える。研究室の卓上に収まる装置で重力と量子効果を同時に検証できる時代が視野に入り、将来的には血管内の微細な磁場をとらえる医療イメージングや、GPS が届かない極地で航法を支える慣性センサーへと応用範囲が広がる可能性がある。当サイトでは、この実験の改良版や企業による実装事例など最新の動向を随時追跡している。ブックマークしておけば、次世代量子技術が現場へ浸透していく瞬間を逃さず見届けられるだろう。
参考文献
- 元記事:https://phys.org/news/2025-08-pure-quantum-state-cooling.html
- Dania et al., Nature Physics (2025)