量子コンピューター専業企業のD-Wave Quantum(NYSE: QBTS)は2025年8月4日、開発者が量子アニーリングを機械学習に取り込める量子AIツールキットとデモプログラムをOSSとして公開したと発表した。このツールは同社のOcean™ソフトウェア群に組み込まれ、深層学習フレームワークのPyTorchと直結することで、量子チップをGPUのように呼び出せる設計になっている。デモでは量子プロセッサを使い、制限ボルツマンマシン(RBM)という生成モデルを学習させ、簡易的な画像を作り出すことに成功したと報告された。これは従来GPUで行っていた指数的に重いサンプリング計算を量子ハードにオフロードできる可能性を示すものだ。さらにD-Waveは、JTの創薬プロジェクトで古典的手法を上回る学習速度を達成した事例や、ヨリヒSupercomputing Centreが量子支援SVMでDNA結合予測精度を高めたケースなど複数の応用例を公表し、量子AIが“研究室の実験”から企業導入の実装段階へ移りつつあると強調している。
ニュース詳細

PyTorchとシームレス連携する量子AIツールキット
公開された量子AIツールキットは、PyTorchで普段使っているレイヤーに新しい積み木を差し込む感覚で量子計算を呼び出せるように設計されている。ニューラルネットの中にある制限ボルツマンマシン(RBM)層を「DWaveRBM」というクラスで定義し、その重み更新に必要なサンプリング処理を丸ごと量子アニーリングマシンへ投げる仕組みだ。学習ループ自体はPyTorchの標準APIと同じ書き方なので、大量のパラメータを扱う場面ではGPUを使い、組合せ最適化がボトルネックになる箇所だけ量子チップに切り替えるといったハイブリッド運用が、ほんの数行のコード追加で実現できる。
RBM訓練に量子アニーリングが向く理由
制限ボルツマンマシン(RBM)は、データを取り込むたびに「この重みの組合せならエネルギーがどれだけ下がるか」を計算し直し、より低エネルギー=より良い重みへ徐々に更新してゆく仕掛けである。ところが入力データが数百万点規模になると、エネルギーの山と谷が天文学的な数だけ現れ、どこが最も低い場所なのかをクラシカルなサンプリングで探すのは雪山で一粒の宝石を見つけるほど骨が折れる。量子アニーリングは、この「山を越える」作業にトンネル効果を利用することで、従来より短い時間で深い谷—エネルギー極小点—に滑り込める可能性を持つ。D-Waveは自社量子チップにRBMのサンプリングを任せた結果、クラシカルGPUより高い対数尤度—モデルがデータをどれだけうまく説明できるかを示す指標—を得たと報告している。生成画像の品質向上や創薬での分子パターン学習など応用実験も進んでおり、離散最適化を必要とするAI分野で量子アニーリングの優位性が徐々に裏付けられ始めた。
企業ユースケース:JT・ヨリヒ・TRIUMF
日本たばこ産業(JT)の医薬品部門では、新薬候補を絞り込む際に欠かせない「化合物同士の似ている度合い」を表すベクトルを量子RBMで学習させたところ、従来GPUを使う場合より計算が短時間で収束し、なおかつスコアの精度も上がったと報告されている。同じくヨリヒ・スーパーコンピューティングセンターでは、タンパク質がDNAのどこに結合するかを予測する作業にサポートベクトルマシン(SVM)と量子サンプリングを組み合わせる手法を導入し、判定性能を示すF1値がクラシカル実装より顕著に向上したと公表した。またカナダの加速器研究所TRIUMFは、高エネルギー粒子がカロリメータを通過する際の複雑な相互作用を模擬するために量子RBMで合成データを生成した結果、同等の精度を保ったまま従来法より桁違いに高速なシミュレーションが可能になったと、npj Quantum Information誌に論文を掲げている。これら三つの事例はいずれも、量子アニーリングが機械学習の実務的課題に対して計算コスト削減と精度向上を同時にもたらす可能性を具体的に示したものと言える。
専門家解説

ポイント整理
量子AIツールキットの要点をまとめると、まずPyTorchの流儀に完全に合わせて作られているため、既存の深層学習コードに違和感なく差し込める点が大きい。次に、組合せ最適化がボトルネックになる処理を量子アニーリングに肩代わりさせることで探索速度を一気に高められるという計算上のメリットがある。さらに実際の適用事例が創薬、バイオインフォマティクス、高エネルギー物理といった多岐の分野に広がっており、理論的な可能性にとどまらず現場での有用性が次第に実証されつつある。この三層構造がツールキットの価値を支えている。
さらに解説
量子アニーリングは、量子ゲートで行列演算をこなす方式とは発想がまったく異なり、イジングモデル――スピンが上下に並ぶ磁性体のエネルギー関数――を最小化する専用ハードとして設計されている。制限ボルツマンマシン(RBM)の学習では、各ユニットを何度もギブスサンプリングして重みを更新する過程が計算のブレーキになるが、量子アニーリングはトンネル効果でエネルギーの谷をショートカットし、局所解に閉じ込められにくい。言い換えれば、重みの揺らぎを量子揺らぎで能動的に探索し、より良いパラメータへ早く到達できる可能性が高い。今回のツールキットがPyTorchと統合されたことで、研究者は同じコードベースで古典サンプリングと量子サンプリングを即座に切り替え、どちらが学習を早く、あるいは精度高く仕上げるかを実験設計の段階で簡単に比較できるようになった。
キーワード解説
- 量子AIツールキット:D-Wave が配布する PyTorch 拡張パッケージであり、Python コードから量子アニーリング QPU を直接呼び出し、RBM やその他の深層学習レイヤーを量子サンプリングで高速に訓練できる仕組みを提供する。クラウド経由でもオンプレミス QPU でも同じ API で動くため、研究環境から商用環境まで移植コストが低い。
- 量子アニーリング:イジングモデルのエネルギーを最小化するよう設計された量子計算方式であり、量子トンネル効果によって探索空間の“谷”を飛び越えるため局所最小値に捕まりにくい。組み合わせ最適化やサンプリングがボトルネックとなる機械学習に向く。
- RBM(制限ボルツマンマシン):可視層と隠れ層の二層のみから成る確率的グラフモデルで、重み学習には多数の離散変数サンプリングが必要となる。画像生成、特徴抽出、創薬での化合物クラスタリングなどに用いられる。
- Ocean™:D-Wave が提供する開発者向け SDK 群の総称であり、問題をイジング形式へ自動変換するツールや量子クラウドへのジョブ投函 API を含む。量子AIツールキットもこのエコシステムの一部として配布される。
- PyTorch:動的計算グラフを特徴とする Meta 発のオープンソース深層学習フレームワークであり、研究の試行錯誤から商用展開まで幅広く使われる。量子AIツールキットは PyTorch のレイヤー拡張として実装されているため、既存コードに量子レイヤーを挿し込むだけでハイブリッド学習を試せる。
- 量子AI:量子計算リソースをニューラルネットの学習・推論プロセスに統合し、計算量の削減と表現力の向上を同時に狙う研究分野である。アニーリング方式とゲート方式の双方が検討されており、生成 AI や創薬、材料探索でのブレイクスルーが期待されている。
まとめ

D-Waveの量子AIツールキットは、量子アニーリングを深層学習の現場へ持ち込む実践的な橋渡し役となる。RBMという古典的モデルを皮切りに、生成AIや創薬など計算負荷が高い領域で量子技術が真価を発揮し始めた。量子クラウドLeapやLaunchPad™プログラムも用意されており、試験導入のハードルは下がっている。当サイトの【量子AI特集】では導入手順や最新ベンチマークを随時更新する。ブックマークして量子×AIの最前線を追いかけてほしい。

