CERN(欧州原子核研究機構)の反物質研究拠点「反物質工場」に拠点を置くBASE実験チームが、世界で初めてアンチプロトンを使った量子ビット(qubit)の構築に成功した。量子ビットとは、量子コンピュータの最小単位であり、通常は電子やイオンなどの物質で構成されるが、今回の成果はそれを反物質で実現したという点で、物理学史上初の試みである。つまり、通常の粒子の「鏡像」であるアンチプロトンを使って、情報を量子的に記録・処理できる状態を作り出したのだ。
実験では、反プロトンを「ペニングトラップ」と呼ばれる特殊な装置に閉じ込めた。この装置は、強い電磁場を使って微小な粒子を空中に浮かせるように保持するもので、外からのノイズや振動などを極力排除し、粒子を安定させる役割を果たす。その環境下で、反プロトンのスピンという性質を使って、量子的な「揺らぎ」を50秒間維持することに成功した。この「スピンの揺らぎ」が保たれた状態は「コヒーレンス(量子干渉状態)」と呼ばれ、量子ビットの動作に不可欠である。50秒という持続時間は、反物質における量子状態としては異例の長さであり、極めて安定した量子状態の制御が可能であることを意味する。
この成果は単なる技術的成功にとどまらず、物質と反物質の微細な性質の違いを高精度で比較する新たな手段を提供するものでもある。たとえば、プロトンとアンチプロトンが本当に完全に対称なのか、磁気モーメント(磁石としての性質)にわずかな違いがあるのかどうかを、より精密に測定できる可能性が広がった。もしそこに違いがあれば、それは現在の物理学の基盤である「標準理論」では説明できず、新たな理論の必要性を示す重大な発見となる。
また、このような高精度な実験を継続的に行うには、CERN内の加速器施設の稼働による振動や磁場変動といった影響を避けなければならない。そこで、反物質を別の場所に持ち出して静かな環境で実験できるよう、可搬型のペニングトラップ装置「BASE‑STEP」の開発も進められている。これは反プロトンをトラックに載せてドイツの研究所などへ運搬し、外乱の少ない場所でさらに精密な測定を行う計画であり、次世代の反物質研究の中心となる可能性を秘めている。
ニュース詳細
実験の背景と目的
CERNに設置されたBASE(Baryon Antibaryon Symmetry Experiment)プロジェクトは、反物質研究の中でもとりわけ精密な実験を担う国際共同研究チームであり、その目的は反プロトンという反物質の粒子の性質を極限まで正確に測定することにある。特に、反プロトンの電荷と質量の比率や、磁石のような性質を示す「磁気モーメント」の大きさを、高精度で測ることに力を注いできた。
これまでの成果では、測定の不確かさをわずか数ppm(100万分の数)から、ppb(10億分の1)という極めて細かな誤差の範囲にまで縮めることに成功しており、これは世界最高レベルの精度である。こうした比較は、私たちが住む宇宙がなぜ「物質」に偏っていて、対になるはずの「反物質」がほとんど存在しないのかを解明するうえで極めて重要である。その理由の探究には、「CPT対称性」と呼ばれる物理法則の成り立ちが深く関わっており、プロトンと反プロトンの間に違いがあれば、その対称性が破れている証拠になる可能性がある。
今回の研究では、これまでの方法をさらに一歩進めて、量子的な「コヒーレンス(干渉性)」を保ったまま、反プロトンのスピン状態を制御し、連続的に観測することに成功した。これは単に反プロトンの性質を調べるだけでなく、反物質を用いた量子物理の新たな地平を開く可能性を持つ画期的な成果である。量子コヒーレンスとは、量子力学の中でも特に繊細で壊れやすい状態であり、それを反物質で安定的に維持・測定するというのは、極めて高度な実験技術を要する。
つまりBASEは、反プロトンという宇宙でも自然には存在しにくい粒子をつかまえ、それを精密に操りながら、宇宙の最深部に潜む対称性の秘密に迫ろうとしているのである。これは量子力学、素粒子物理学、そして宇宙論を貫く壮大な問いに対して、一粒の反物質から挑みかかる知的冒険といえる。
アンチプロトン量子ビットの構築
研究チームは、温度をほぼ絶対零度、圧力を宇宙空間より低い真空という極限環境に保ったペニングトラップを用い、ただ一つの反プロトンを電磁場の“檻”に閉じ込めた。さらに複数のトラップを並列に配置し、外乱をほとんど与えないまま粒子を隣のトラップへ受け渡すことで、磁場勾配の影響を打ち消しつつ精密なスピン操作を施した。スピンとは粒子が持つ微小な磁石の向きのようなもので、上向きと下向きの二状態の間を量子的に行き来させる操作が成功すると、その振動パターン――ラビ振動――が現れる。測定の結果、反プロトンはおよそ五十秒間にわたりスピンの重ね合わせ状態を保ち続けた。反物質がこれほど長時間コヒーレンスを維持できた例は前代未聞であり、単一粒子の量子干渉を利用した分光法が反物質研究にも適用できることを初めて実証した意義は大きい。今後、同じ手法でスピンの共鳴周波数を繰り返し測定すれば、反プロトンの磁気モーメントをさらに桁違いの精度で決定できる見通しが立った。
精度向上への展望とBASE‑STEPの導入
今回観測されたコヒーレンス時間は五十秒にとどまったが、研究チームは装置を改良し温度制御や電磁シールドを徹底することで、その持続時間を十倍、さらには百倍に延長できると見込んでいる。鍵を握るのが「BASE-STEP」と呼ばれる可搬式ペニングトラップである。この装置は靴箱ほどの大きさに縮小した真空チャンバーと冷却系を一体化し、トラックに載せて遠隔地の研究所へ運べる設計を採用している。加速器が稼働するCERNの実験ホールは強力な磁場や振動が絶えず発生するため、どうしても測定に雑音が混じる。そこでBASE-STEPを使い、地中深くに設けられた低ノイズ環境のラボへ反プロトンを搬送し、数時間から数日にわたる安定測定を行う計画が進む。ノイズ源を徹底的に排除した環境で長時間平均を取れば、磁気モーメントの決定精度は現在の一〇倍から一〇〇倍に向上すると試算されており、物質・反物質対称性の検証が新たな段階へ進むと期待される。
専門家解説
ポイント整理
今回の成果が画期的とされる最大の理由は、反物質を量子ビットとして実際に機能させた史上初の実験例を示した点にある。これまで量子コンピュータの構成要素として用いられてきたのは、レーザーで冷却したイオンや半導体内の電子スピンなど、いずれも「普通の物質」に属する粒子ばかりであった。それに対し、プロトンの鏡像である反プロトンを情報の担い手に選んだことは、量子情報科学と素粒子物理学を横断する新しい研究領域を切り開く。実験では、ただ一つの反プロトンのスピン向きを思いどおりに反転させ、その様子を連続的に読み出す技術が確立された。しかも量子状態が崩れずに保たれた時間は五十秒と、量子系としてはきわめて長い。長時間のコヒーレンスは精密測定の命綱であり、この安定性があってこそ、プロトンと反プロトンの磁気モーメントを桁違いの精度で比べられる道が開ける。もし両者の値にごく微小な差異が見つかれば、宇宙に物質が残り、反物質が消えた謎を説明する手がかりになり、標準理論を超える新しい物理像が姿を現す可能性がある。
さらに解説
今回手に入った「反物質量子ビット」という新しい道具は、現代物理学の基礎を揺さぶる潜在力を秘めている。もしプロトンと反プロトンのあいだに、万分の一、億分の一といった極小の違いが見つかれば、標準理論では帳尻が合わない現象──たとえばビッグバン直後に物質だけが生き残り、反物質が姿を消した理由──を説明する手がかりになるかもしれない。今回の技術は、量子コンピュータを量産するというより、単一粒子を精密な「量子センサー」として使い、物質と反物質の差異を顕微鏡で覗くように測り取る用途に向いている。また、ペニングトラップを丸ごと運搬できるBASE-STEPのおかげで、加速器ホールの騒々しい磁場や振動を避け、静かな研究室で測定を重ねる体制が整いつつある。これにより従来は一つのデータを取るのに七年かかると試算された実験が、はるかに短いスパンで完了できる見通しとなり、物理学の最前線を加速させる要石になると期待される。
キーワード解説
- アンチプロトン
反物質に属する粒子で、通常のプロトンと質量は同じだが電荷が負である。今回の実験では、この粒子のスピンを量子的に操ることで反物質を“情報のキャリア”として利用できることが示された。宇宙が物質に偏った理由を探る鍵として注目されている。 - Qubit(量子ビット)
量子コンピュータを構成する最小単位で、従来のビットが示す0か1のどちらかではなく、0と1を同時に重ね合わせた状態もとれる。この重ね合わせと量子特有の“絡み合い”を利用することで、並列計算能力が桁外れに向上する。 - コヒーレンス時間
量子状態が外部からの振動や電磁ノイズに邪魔されず、純粋なまま保たれる持続時間を指す。反物質で五十秒という値は異例に長く、精密測定の正確さを大きく左右する重要な指標である。 - ペニングトラップ
強い磁場と静電場を組み合わせ、電気的に帯電した粒子を宙に浮かせるように閉じ込め続ける装置である。温度を極低温に保つことで粒子をほぼ静止させ、長時間にわたりその性質を詳しく調べることができる。 - Rabi振動
粒子のスピンが「上向き」と「下向き」の間を一定のリズムで行ったり来たりする現象で、量子ビットの操作が正しく行われているかを確かめる“心拍”のような指標となる。振動の周期や減衰を測定することで、量子制御の精度がわかる。 - CPT対称性
電荷反転(C)、空間反転(P)、時間反転(T)という三つの変換を同時に行った場合、物理法則はまったく同じ形を保つはずだという基本原理である。もしプロトンとアンチプロトンの性質にわずかな差が見つかれば、この対称性が破れている証拠となり、標準理論を超える新しい物理への扉が開く。
まとめ
アンチプロトンを使った量子ビットが誕生した事実は、量子情報分野と反物質研究の流れを同時に変える出来事である。五十秒という長いコヒーレンス時間は、粒子が周囲の雑音に邪魔されずに量子的な揺らぎを保ったまま測定できることを意味し、顕微鏡で原子の影を追うような従来の方法より桁違いに鮮明なデータをもたらす。具体的には、物質と反物質が本当に鏡写しの存在かを決めるCPT対称性の試験や、磁気モーメントのわずかな差を突き止める超精密分光が射程に入った。もし差異が見つかれば、ビッグバン直後に反物質が消えた理由への手がかりとなり、標準理論を書き換える契機にもなり得る。量子ビットの実用的応用はまだ先だが、反物質という極端に扱いにくい粒子を安定して操れた意義は大きく、量子センサーなど基礎科学の道具立てが一気に広がる。量子技術や宇宙の成り立ちに興味を抱く読者は、Natureに掲載された原論文やBASE実験が今後発表する最新データにも目を向け、未知の物理を探る最前線に触れてほしい。