オーストラリアのマッコーリー大学が行った最新実験では、ダイヤモンド結晶の中で起こる刺激ラマン散乱という現象を利用し、レーザー光の「線幅」を一気に細くすることに成功した。線幅とは光がどれだけ純粋な色を保てるかを示す指標で、幅が狭いほど周波数がぶれず、精密な測定に向く。従来広く使われてきたブリルアン散乱法でも線幅は圧縮できるが、音の振動を介するため効果が限定的だった。それに対しラマン散乱は光が物質内の原子振動を直接刺激するので効率が桁違いに高く、今回の方法ではブリルアン法より千倍以上の速度でノイズを消せることが確認された。実験ではわざと 10 MHz もの揺らぎを含ませたレーザービームを用意し、装置を通すと測定器の限界である 1 kHz まで雑音が消えた。計算上はさらに進めれば一千万分の一まで細められる可能性があり、原子時計や量子コンピュータ、さらには重力波を捉える干渉計など、周波数の安定が命綱となる最先端装置にとって大きな追い風となる。出典:APL Photonics 掲載論文。
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従来法の限界と新アプローチ
従来のブリルアン散乱法は、光が物質内部で音波のような振動(音響フォノン)とやり取りすることで雑音を減らす仕組みだが、その振動は比較的長生きなため、レーザーの揺らぎを抑え込むまでにどうしても時間がかかる。言い換えれば、音で光を落ち着かせるには“ゆっくりした子守歌”が必要で、即効性に欠けるという弱点がある。それに対し刺激ラマン散乱は、光が結晶中の原子そのものを直接小刻みに震わせ、その振動エネルギーをフェムト秒(1000兆分の1秒)という超短時間で逃がしてしまう。結果として、光の周波数のブレを瞬時に吸収してしまえるので、レーザーの色を鋭く絞り込む速度が桁違いに速い。今回の研究では、熱を素早く逃がせて割れにくいダイヤモンドを数ミリ角に切り出し、鏡で囲んだ共振キャビティに組み込むことで、この高速ダンピング効果を実証したのである。
実験結果のインパクト
研究チームは、わざと雑音を強めた幅 10 MHz のレーザービームを用意し、それをダイヤモンド入りキャビティへ通したところ、出てきた光の線幅は測定器が見分けられる最小値である 1 kHz まで一気に細くなった。言い換えれば、光の揺らぎを一万分の一以下にまで圧縮できたわけだが、これは測定器の限界で止まっているだけで、光そのものはさらに純粋になっている可能性が高い。計算モデルによれば、共振器の設計や結晶の品質を最適化すれば、同じ 10 MHz の雑音をわずか 1 Hz 以下、つまり一千万分の一まで押さえ込める余地があると示される。もしそこまで狭められれば、現在マイクロ波で実現している最高精度の周波数標準さえ軽く追い抜き、未来の光周波数基準を塗り替えるほどの潜在力を秘めている。
量子技術への応用可能性
量子コンピュータの演算は、光の「位相」と呼ばれる波のタイミングを巧みに操ることで進むが、このタイミングが少しでも揺らぐと量子ビット同士の協調が乱れ、結果として計算ミスが増える。線幅が広いレーザーは周波数が微妙にばらけているため波のタイミングがぶれやすく、いわば指揮者のテンポが安定しないオーケストラのような状態になる。本研究で示されたラマン散乱による狭窄技術を導入すれば、レーザー光の純度が飛躍的に高まり、波のタイミングが揺らがないので量子ビットが足並みをそろえやすくなり、演算結果の信頼性を大幅に押し上げられる。さらに、世界の正確な時刻を決める原子時計では、レーザーで原子を照らし、その応答周波数を測って秒を定義するが、レーザーの線幅が狭いほど原子の遷移をくっきりと捉えられ、観測誤差が減る。ラマン散乱で得られる超狭線幅レーザーは、これまでマイクロ波領域が担ってきた時間基準を光周波数へ置き換える鍵となり、地球規模の時間標準を一段と正確なものへ更新する切り札になり得る。
将来の改良点と研究課題
現時点では、レーザー光を往復させる共振器の長さがわずかにずれるだけで性能が伸び悩み、さらに内部に置くダイヤモンド結晶の純度や欠陥が線幅狭窄を阻む要因になっている。このボトルネックを打破するには、不純物を極限まで減らした化学気相成長(CVD)ダイヤモンドを採用し、光を逃がさず閉じ込めるフォトニック結晶キャビティを組み合わせることで、より強い光をロスなく循環させる設計が求められる。こうした改良が進めば線幅を一段と絞り込みつつ、出力パワーを高めるスケールアップも視野に入る。しかし同時に、激しい原子振動が生む高周波の熱を効率よく逃がし、光強度が上がりすぎてラマン効果が頭打ちになる飽和を抑える制御回路の開発が欠かせず、これらのエンジニアリング課題をクリアすることが次の大きな焦点となる。
専門家解説

ポイント整理
この技術の魅力はまず何より反応の速さにある。光が結晶に入った瞬間、フェムト秒というごく短い時間で位相の揺らぎが吸収されるため、レーザーはほぼ同時に純粋な波形へ整えられる。しかも一度の通過で得られる線幅の縮み具合は従来法の千倍を優に超え、わずかなエネルギーで劇的な浄化が実現できる点が際立つ。さらに波長やレーザーの種類をほとんど選ばず適用できるので、実験室にある多様な光源を一括して高性能化できる柔軟性がある。こうして得られる超狭線幅レーザーは、量子コンピュータの計算精度や光格子時計の時間計測精度を直接底上げし、量子技術の実用化を前倒しにする切り札となる。しかもキャビティ設計や材料科学の工夫次第で装置自体を小型化し、シリコンチップ上へ集積する道も開けており、将来的にはポケットサイズの量子計測デバイスすら視野に入ってくる。
さらに解説
レーザーの線幅を極限まで細く保つことは光科学の永年の課題だった。従来は、ゆりかごのように静かな共振器を外部に置き、そこへレーザーを合わせ込む「外部参照キャビティ方式」が定番とされてきたが、この方法ではキャビティ自体が温度の揺らぎや床の微振動をもろに受け、ほんのわずかな熱伸縮や振動で周波数がズレてしまう。いわば精密な分度器を風の吹く野外で使うようなもので、安定化には重厚な温調装置や防振台が欠かせなかった。対照的に、今回のラマン散乱法では光が結晶内部の原子格子を直接振動させ、そのエネルギーを瞬時に吐き出して再び光へ戻すという三波の循環が起こるため、レーザー自身の内部で“自己洗浄”が完結する。外部装置に頼らず光の純度を保てる点が革命的なのである。特に媒体として用いるダイヤモンドは熱を銅の五倍近い 1,500 W/m·K で逃がすため、発熱があっても周波数をほとんど揺るがさない。また炭素だけでできた結晶なので生体適合性が高く、医療用分光や体内センサー向け光源として応用範囲が広い。つまりダイヤモンドラマンレーザーは、安定度と安全性を兼ね備えた次世代の“自己完結型”光源として、研究室の外へ飛び出す準備が整いつつある。
キーワード解説
- レーザー線幅狭窄
- レーザー光の周波数ばらつきを極限まで削ぎ落とし、ほぼ単一色にする技術である。線幅を細めることで位相ノイズが劇的に低減し、干渉計や量子ビット制御の精度が向上する。
- 刺激ラマン散乱
- 強力なレーザーが結晶内の原子格子を直接震わせ、振動エネルギーを瞬時に光へ戻す非線形光学現象である。高周波の格子振動を利用するため、短い距離でも大きな線幅狭窄効果を発揮する。
- ブリルアン散乱
- 光が物質中の音響フォノンと相互作用し、わずかに波長が長い光へ変換される現象である。線幅を狭める効果はあるが、音響振動は寿命が長く、ラマン散乱ほどの即効性と効率は得られない。
- ダイヤモンドキャビティ
- 高純度ダイヤモンドを共振器に組み込み、光と格子振動のエネルギー交換を高効率に行わせる構造である。優れた熱伝導性と機械強度により、強いレーザーでも周波数安定性を保てる。
- 量子コンピュータ
- 重ね合わせと干渉を利用する量子ビットを計算資源とする次世代計算機である。狭線幅レーザーは制御パルスの位相揺らぎを抑え、演算エラーを減らす鍵となる。
- 原子時計
- 原子遷移の周波数を基準に時間を測る装置である。レーザー線幅が狭いほど遷移ラインが鋭く観測でき、秒の定義精度が向上する。
- 精密計測
- 長さ・時間・質量などを極微量で高精度に測定する科学技術分野である。狭線幅光源は干渉測定や分光分析の信号源として不可欠であり、見えなかった微小変化を捉える能力を与える。
まとめ
レーザー線幅狭窄は、量子コンピュータや光周波数標準といった「量子時代」を支える電気や水道のような基盤技術になりつつある。マッコーリー大学が示したラマン散乱法は、従来を大きく上回る性能を示しただけでなく、波長やレーザーの種類を選ばず適用できるため、研究室から産業応用まで幅広く展開できる懐の深さを持つ。今後は量子ビットの制御光源や次世代原子時計の心臓部として装置へ組み込まれ、量子計算や時刻標準の精度を一段と押し上げると予想される。フォトニクス分野は成果の更新が早く、実験的な報告が数か月単位で相次ぐので、論文や企業発表をこまめにチェックし、応用例や市場ニーズの変化を追い続けることが、研究開発や投資のタイミングを逃さない近道になる。より踏み込んだ情報は、関連する特集記事や学会発表のリポートも併せて参照してほしい。

