カナダの量子コンピュータ企業Xanaduと化学大手の三菱ケミカルは2025年7月2日、半導体の回路を描く“超短波長の光”――極端紫外線(EUV)を扱う最先端プロセスで使われる感光材「フォトレジスト」を、量子コンピューターで詳細にシミュレーションする共同プロジェクトを発表した。EUVは髪の毛の何万分の一という極細ラインを描ける反面、光がレジストに当たった瞬間に起こる電子の飛び出し(オージェ崩壊)や、飛び出した電子がさらに材料内部をかき回す二次電子効果といった量子レベルの現象が複雑に絡み合い、従来の計算機では精密に再現しづらい。Xanaduは光子を用いるフォトニック量子コンピューターと専用アルゴリズムを提供し、三菱ケミカルはレジスト分子の構造や反応データを持ち寄ることで、光と物質のやり取りを原子一つひとつの動きまで再現しようとしている。これにより試作や評価にかかる時間とコストを大幅に削減し、より高性能なチップづくりを前倒しできる可能性がある。カナダ政府の関係者は「量子技術で半導体産業の未来を切り拓く象徴的な連携だ」と期待を寄せる。
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スマートフォンやAIサーバーの計算速度は、トランジスタをどこまで小さく作り込めるかに左右される。だが線幅が7 nmを下回る領域では、通常の可視光よりはるかに短い13.5 nmの極端紫外線(EUV)を使った露光が不可欠となり、レジスト内部では電子が飛び交う量子現象が主役に躍り出る。古典的なシミュレーターは、この電子同士の複雑な絡み合いを単純化して計算するため、細部で誤差が生じやすい。量子コンピューターは電子の状態そのものを量子ビットで“写し取る”ように模倣できるため、EUVプロセスで起こる光と物質のやり取りを等身大で再現し、新しい制御手法を切り拓く起点となる。
量子アルゴリズムの革新性
Xanaduの量子アルゴリズムチームは、光子と電子が影響し合う様子を精密にとらえるために、フェーズ推定とバリアンス推定という二つの手法を組み合わせた新モデルを作り上げた。本来、光子の数が増えるほど計算は指数的に重くなるが、光子配置のほとんどが「ゼロ」であるという疎な性質を活用し、回路を薄く保つ“Photon-Efficient QITE”を採用。これにより、まだ能力が限られるNISQ(ノイズあり中規模量子)デバイスでも計算を走らせられるようにした。さらに、三菱ケミカルが持つ高精度の電子分光データでパラメータを調整することで、理論と実験をぴたりと一致させ、現実の材料開発にそのまま繋げられる仕組みを整えている。
フォトニック量子ハードウェアの強み
フォトニック量子コンピューターは量子ビットそのものが光子であるため、液体ヘリウムで冷やす必要がなく室温で動作できる。光ファイバー通信と同じインフラを応用でき、毎秒何百万回もの演算を同時並列にこなすスループットの高さも強みだ。さらに、シリコンフォトニクスの技術を用いれば、EUVと同じく“きわめて短い波長”の量子光を自在に生成・制御でき、EUVリソグラフィで起こる光―物質相互作用をまさに“光で写し取る”形で再現できる。この性質が、今回のシミュレーションにおいてフォトニック方式を他の量子ハードウェアより優位に立たせている。
今後のロードマップ
ロードマップはまず2025年の第4四半期に、小さめのフォトレジスト分子を題材にしたプロトタイプ検証から始まる。ここで光の吸収挙動や二次電子発生を量子計算でどこまで追えるかを実証し、モデルと実測との差異を洗い出す。次に2026年前半には量子モードを128まで拡張し、EUV光を吸収する過程のスペクトルをほぼ完全に再現できる段階へと進む。最終フェーズとなる2027年には、成熟したアルゴリズムをクラウドAPIとして公開し、半導体メーカー各社が自社レジストの設計や工程最適化に直接利用できる環境を整え、共同検証のネットワークを世界規模に広げる計画だ。
筆者解説
なぜ今回のニュースが業界のゲームチェンジャーか
EUV量産ラインではフォトレジストの欠損がわずか一十億分の一(1 ppb)生じただけで、歩留まりが大きく崩れ数百万ドル規模の損失へ直結する。量子シミュレーションが本格的に運用されれば、試作と実測を繰り返す従来フローの約四割をデジタル上で代替できると見込まれ、開発期間とコストを一挙に圧縮できる。半導体露光の主役であるASMLが光学系を磨き上げてきたのと同等、あるいはそれ以上のインパクトが、材料設計側から生まれる点がゲームチェンジャーと呼ばれるゆえんだ。
日本企業にとってのチャンスとリスク

日本は化学素材や精密加工で世界トップクラスの実績を持つ一方、量子コンピューティングの基盤サービスではカナダや米国勢が先を走る。国産材料メーカーが海外クラウドやAPI経由で量子リソースを取り込み、自社の配合ノウハウと組み合わせられるかどうかが競争力の境目になる。経済産業省が掲げる「量子未来社会ビジョン」は、量子技術を産業全体に実装するロードマップを示しており、今回の動きはその具体化を後押しする可能性が高い。ただし出遅れれば、供給網の上流を握る立場から一気に“受託側”へ転落するリスクも同時に孕む。
用語解説
EUVリソグラフィ
波長13.5 nmの極端紫外線を用いてシリコンウエハーに極微細な回路パターンを描く露光技術。光の波長が短いほど解像度が高くなり、2 nm級まで線幅を縮められるため、最先端半導体には欠かせないプロセスとなっている。
フォトレジスト
EUV光を受けて化学反応し、現像工程で不要部分が溶解することでパターンを形成する感光性樹脂。分子設計によって感度や解像度、ラインエッジ粗さが大きく変わるため、歩留まりを左右する要となる。
オージェ崩壊
EUV光が内殻電子を励起した後、空席を埋める電子が別の電子をはじき飛ばす量子過程。飛び出した電子は高エネルギーのままレジスト内を走り回り、二次的な化学反応を誘発してパターン品質に影響を与える。
二次電子効果
オージェ崩壊などで生成された高速電子がレジスト分子に衝突し、新たな電子を連鎖的に生み出す現象。エッジ粗さやライン幅変動の主因となるため、その挙動を高精度でシミュレーションすることが求められる。
フォトニック量子コンピューター
量子ビットとして光子を用いる量子計算機。室温動作が可能で、光通信インフラを流用できるうえ、光周波数領域の制御が得意という特性を持つ。EUV領域に近い短波長の量子光を扱える点が、光―物質相互作用の再現に適している。
NISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum)
誤り訂正が不完全なまま数十〜数百量子ビット規模で動作する現世代の量子デバイス群。ノイズを抱えつつも、アルゴリズム設計次第で実用的な計算が期待される段階にある。
PennyLane
Xanadu主導で開発されるオープンソース量子機械学習ライブラリ。Pythonベースで、量子回路と古典ニューラルネットを組み合わせたハイブリッド計算を簡潔に記述できることから、研究と産業応用の橋渡しを担う。

